読み書き

読んだものについての覚書

『映画とは何か 上・下』(岩波文庫/アンドレ・バザン〈著〉/野崎歓、大原宜久、谷本道昭〈訳〉)

「映画とは何か」と問う。それは、「映画が映画である為に必然の条件とは何か」という問いだろう。つまり、映画の存在論。そしてその論述は、具体的には映画と映画ならざるものとの相似と差異についての議論を通して、それをあきらかにしていくことになる。あきらかにしていくと言っても、もとより一貫した網羅的論述ではなく、あちこちで書きためられた文章の集成であるだけ、それは一見して「映画」という巨きな総体のあちらの断面こちらの断面を逐次削り出していくような作業として見受けられることになる。即ち映画と写真、映画と演劇、映画と文学、映画と絵画といった断面を通じて。そしてそれらの議論の中からやがて浮き彫りになってくるのは、映画の存在論的基盤としての「現実」という概念、及びその映画的な再構成の規範としての「リアリズム」という概念だろう。
このアンドレ・バザンの「現実」及び「リアリズム」という概念を巡る論述は、確かに映画の存在論と呼ぶに相応の論述たりえている。映画は現実をできるだけあるがままの姿でとどめたいという人間の欲望の産物であり、その意味で映画はいまだに完成していない芸術であるという逆説的なテーゼも導出される。映画はいまだに完成していない芸術であるというテーゼは、サイレント期の映画に映画的表現の完成形を見るような立場とはあきらかに対立することになるが、その対立は、アンドレ・バザン的に言い換えれば「映像を信じる」ことと「現実を信じる」こととの対立ということになるのだろう。アンドレ・バザンの『映画とは何か』に於ける論述は網羅的でない分だけ一つのテーゼを系統だてて展開するようなかたちにはなっていないが、この「映像を信じる」ことと「現実を信じる」こととの対立図式は、あるいはアンドレ・バザン的な「現実」及び「リアリズム」の概念へのアンチテーゼをもたらす対立図式ではあるかも知れない。

「映像を信じる」ということは、もっと言えば映画が物語を独自に語れてしまうことを信じるということだろう。映画は映画だけで物語を語り、さらにはそれによる映画だけの世界をすら描くことが出来てしまう。今日ではCGが仮想的な世界を容易に映画の中に描き出すようになったが、それは素朴な意味では「現実」及び「リアリズム」の概念の範疇には収まらない映像をもたらすように見える。映画の中の仮想的な世界の秩序も、類型的には「現実」及び「リアリズム」の概念の範疇に規範的に準じているかも知れないが、一方でそれが独自の物語を表現できるのは、それが何より映画内部の表現の秩序に準じているからでもある。映画内部の表現の秩序とは、それこそサイレント期に完成を見たとされるような映像独自の秩序であって、つまりそこで信じられているのは「現実」ではなく「映像」なのでしかない。アンドレ・バザンの時代にはまだ担保されていた「映像=事実」の信念は、仮想的な世界の極めて現実的な描出を可能にする映像技術によって、根底から浸食されてしまう。映像の中で「現実」が仮想と区別がつけられない以上、映像がそれだけでは「現実」に到達しえなくなってしまう。つまりそれは、映画が、アンドレ・バザンが思い描いたような存在論的基盤を失うということではないか。
「現実を信じる」アンドレ・バザンは、その時代に於いて映画が「信じる」に価するものであることの条件を探求したのだと言える。だってそうであってくれなくては映画を見るという生のありかたがあまりにも空しいものになってしまう。映画を見ることが、世界、その現実につながることでなかったのなら、それは確かに空しい。だが映画を信じる規範として置かれる「現実」とは、それが無ければ空しいと感じる感受性だけにとっての「現実」でもあるのかも知れない。それは決して欺瞞でも虚偽でもないが、同時にそれだけが真実でもないのかも知れない。
しかしアンドレ・バザンの論述には、それ自体、かけがえのない熱がある。とくに一つ一つの作品に即してそのありようを論じる際の熱はアンドレ・バザンが「信じる」人だったことを如実に証して余りある。しかもそれは、自分の教条的な信念の為に作品を拒むのではなく、自分が作品に見たものを「信じる」人だったということ。「映画とは何か」という問いに於いて、アンドレ・バザンは自分が作品に見たものを「信じる」ことで論述を展開した。それは自分が作品に何を見たのかという探求になる以上、あるいはそれは、アンドレ・バザンが見た映画、でしかなかったのかも知れない。映画の歴史は所詮技術の進歩でしかない、という見方もあるが、アンドレ・バザンのように作品と切実に向き合うことは、それ自体、映画が固有の「現実」であることの証になるようには思える。つまり映画論に於いて重要なのは、全体の結論ではなく、あちこちに示唆的な痕跡を遺す細部でこそあるのではないか。
「映画とは何か」という問いは、それ自体、映画を見る姿勢なのだと思う。映画と人生がべつのものでないのなら、それはそうなるほかにない。存在論とはそういうものでもある。