読み書き

読んだものについての覚書

『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(早川書房/リチャード・ロイド・パリ―〈著〉/濱野大道〈訳〉)

英語の原題は『Ghost of the Tsunami: Death and Life in Japan's Disaster Zone』。

 

どうして自分がこの本を選んで買ったのか、その具体的な切っ掛けは記憶にも最早定かでないが、あの震災にまつわる心霊譚に興味があったからなのは確かだと思う。心霊譚と言えば何かしら昔年からの因縁のある土地などで怪異な現象が起きるという話の設えであることが多いが、あの震災は自分でも、直近の場所でではないとは言え現在形で体験した大きな災害だったから、言わば身近な現実だった訳で、その身近な現実に際して、心霊譚的な挿話がノンフィクショナルなものとして報告されているというそのことが、興味をさそったのだと思う。つまりそれだけ、所謂心霊譚的な挿話は、少なくとも自分の中では、現実的ではないフィクショナルな世界の話だと暗黙に認識されていたのだろうし、それは一般的にも同じ様なものではないかとも思う。

 

この『津波の霊たち(Ghost of the Tsunami)』という本の副題は、「3・11 死と生の物語(Death and Life in Japan's Disaster Zone)」となっている。訳者あとがきでも少し触れられているが、ここで敢えて「生と死」ではなく「死と生」という語順で副題がつづられていることには、それなりの含蓄、ある種のニュアンスの響きを感じなくはない。この本の著述は基本的に、生存者の生きるか死ぬかの切実な体験談と、その事前や事後に生じた超自然的な感覚に触れる体験談と、そして震災の当事者達が直面することになる社会的な相剋とが、交互に交錯するように叙述されているが、それらの錯綜する「物語」を読んで追っていく内に暗黙に感じられてくるのは、震災の津波が襲ってきたことで、たとえ暴力的にせよ露呈されることになった、その土地や、あるいは日本という社会の基層的な体質なのだ。それは一言には表せず、あるいは必ずしもよいものとも悪いものとも一概には評することも出来ないような「何か」ではあるのだが、その「何か」は、言わば表層的で地上的な「生」の足もとの奥底に、冷たく硬く容易には表出し得ない地盤のようなものとしてあって、それが津波という暴威によって地上の光のもとに露呈されることになった。飽くまで「生と死」ではなく「死と生」という語順でつづられた副題は、その基層的な体質のとしての「何か」を地下的な「死」というイメージで表現したもので、尚且つそんな基層あらばこその表層だという意識も、そこには垣間見えなくもない。

 

だがこの本の著述は、その「死と生」が、飽くまで津波という暴威によって暴力的に露呈されているという現実、その裂傷のありさまに、決して感傷的な叙述による糊塗を施したりはしていない。この本の叙述の一つの特徴的なあり方は、ある意味では映画的とも言える、その挿話の「カッティング」にある。一つの挿話が起承から転結へと至って一挿話として完結してしまう前に、その挿話から別の挿話へと映画の場面転換のように叙述が跳んでしまう。その叙述に接していくと、その印象はきっと、叙述の断面的な切断を、語られている事象自体の断面的な切断として感じさせられる様なものになるだろう。そしてそのように「カッティング」された複数の挿話は、交互に交錯するように配置、構成されることで、「死と生」のイメージの交錯が、著述全体の暗黙なイメージとして浮彫にされてくることにもなる。

 

心霊譚的な挿話への、ある意味では卑俗な好奇心的興味は、その死と生の物語の感傷を排したノンフィクショナルな叙述によって相対化される。何故なら、死や生はそれ自体では抽象的なイメージに過ぎないが、人々の具体的な顔や名前を通した切実な挿話を介したそれは、決して抽象的なイメージではないからだ。あるいはむしろ話は逆で、人々が具体的な挿話の中で被った現実の裂傷、その断面が切実であればあるほど、「死」や「生」という抽象的なイメージが、その抽象的な全体性ゆえにある種の救済、その「物語」として機能する。

 

ある挿話の当事者としての女性が言う。

「ただの偶然でした」と彼女は言った。「都合のいいように解釈しているだけだと思います。人が幽霊を見るとき、人は物語を語っている。途中で終わってしまった物語を語っているんです。物語の続きや結論を知るために、人は幽霊のことを夢見る。それが慰めとなるのであれば、いいことだと思います。」

いつも思う。死者の幽霊が実在するのだとしても、しかしそれは、飽くまでも生者がこの世にあってこそ、この世に現れ出ることも出来る。それはつまり、「死と生の物語」はそれでもやはり「生と死の物語」でもあるということだと思う。

『映画とは何か 上・下』(岩波文庫/アンドレ・バザン〈著〉/野崎歓、大原宜久、谷本道昭〈訳〉)

「映画とは何か」と問う。それは、「映画が映画である為に必然の条件とは何か」という問いだろう。つまり、映画の存在論。そしてその論述は、具体的には映画と映画ならざるものとの相似と差異についての議論を通して、それをあきらかにしていくことになる。あきらかにしていくと言っても、もとより一貫した網羅的論述ではなく、あちこちで書きためられた文章の集成であるだけ、それは一見して「映画」という巨きな総体のあちらの断面こちらの断面を逐次削り出していくような作業として見受けられることになる。即ち映画と写真、映画と演劇、映画と文学、映画と絵画といった断面を通じて。そしてそれらの議論の中からやがて浮き彫りになってくるのは、映画の存在論的基盤としての「現実」という概念、及びその映画的な再構成の規範としての「リアリズム」という概念だろう。
このアンドレ・バザンの「現実」及び「リアリズム」という概念を巡る論述は、確かに映画の存在論と呼ぶに相応の論述たりえている。映画は現実をできるだけあるがままの姿でとどめたいという人間の欲望の産物であり、その意味で映画はいまだに完成していない芸術であるという逆説的なテーゼも導出される。映画はいまだに完成していない芸術であるというテーゼは、サイレント期の映画に映画的表現の完成形を見るような立場とはあきらかに対立することになるが、その対立は、アンドレ・バザン的に言い換えれば「映像を信じる」ことと「現実を信じる」こととの対立ということになるのだろう。アンドレ・バザンの『映画とは何か』に於ける論述は網羅的でない分だけ一つのテーゼを系統だてて展開するようなかたちにはなっていないが、この「映像を信じる」ことと「現実を信じる」こととの対立図式は、あるいはアンドレ・バザン的な「現実」及び「リアリズム」の概念へのアンチテーゼをもたらす対立図式ではあるかも知れない。

「映像を信じる」ということは、もっと言えば映画が物語を独自に語れてしまうことを信じるということだろう。映画は映画だけで物語を語り、さらにはそれによる映画だけの世界をすら描くことが出来てしまう。今日ではCGが仮想的な世界を容易に映画の中に描き出すようになったが、それは素朴な意味では「現実」及び「リアリズム」の概念の範疇には収まらない映像をもたらすように見える。映画の中の仮想的な世界の秩序も、類型的には「現実」及び「リアリズム」の概念の範疇に規範的に準じているかも知れないが、一方でそれが独自の物語を表現できるのは、それが何より映画内部の表現の秩序に準じているからでもある。映画内部の表現の秩序とは、それこそサイレント期に完成を見たとされるような映像独自の秩序であって、つまりそこで信じられているのは「現実」ではなく「映像」なのでしかない。アンドレ・バザンの時代にはまだ担保されていた「映像=事実」の信念は、仮想的な世界の極めて現実的な描出を可能にする映像技術によって、根底から浸食されてしまう。映像の中で「現実」が仮想と区別がつけられない以上、映像がそれだけでは「現実」に到達しえなくなってしまう。つまりそれは、映画が、アンドレ・バザンが思い描いたような存在論的基盤を失うということではないか。
「現実を信じる」アンドレ・バザンは、その時代に於いて映画が「信じる」に価するものであることの条件を探求したのだと言える。だってそうであってくれなくては映画を見るという生のありかたがあまりにも空しいものになってしまう。映画を見ることが、世界、その現実につながることでなかったのなら、それは確かに空しい。だが映画を信じる規範として置かれる「現実」とは、それが無ければ空しいと感じる感受性だけにとっての「現実」でもあるのかも知れない。それは決して欺瞞でも虚偽でもないが、同時にそれだけが真実でもないのかも知れない。
しかしアンドレ・バザンの論述には、それ自体、かけがえのない熱がある。とくに一つ一つの作品に即してそのありようを論じる際の熱はアンドレ・バザンが「信じる」人だったことを如実に証して余りある。しかもそれは、自分の教条的な信念の為に作品を拒むのではなく、自分が作品に見たものを「信じる」人だったということ。「映画とは何か」という問いに於いて、アンドレ・バザンは自分が作品に見たものを「信じる」ことで論述を展開した。それは自分が作品に何を見たのかという探求になる以上、あるいはそれは、アンドレ・バザンが見た映画、でしかなかったのかも知れない。映画の歴史は所詮技術の進歩でしかない、という見方もあるが、アンドレ・バザンのように作品と切実に向き合うことは、それ自体、映画が固有の「現実」であることの証になるようには思える。つまり映画論に於いて重要なのは、全体の結論ではなく、あちこちに示唆的な痕跡を遺す細部でこそあるのではないか。
「映画とは何か」という問いは、それ自体、映画を見る姿勢なのだと思う。映画と人生がべつのものでないのなら、それはそうなるほかにない。存在論とはそういうものでもある。

『考える短歌 作る手ほどき、読む技術』(新潮新書/俵万智)

「短歌」と言えば、五七五七七の三十一文字で綴る詩歌、というくらいのことしか知らない。日常に使う言葉をたんに語呂合わせしてもその形にはなるから、それが詩歌になるためには歌われるべき何かが必要だということになる。その何かをこの本では「心」と呼ぶ。「心」を基本三十一文字の「言葉」に託して表現するのが「短歌」だと。

この本では素人の詠み手の歌を添削し、その「言葉」の形を「心」に則してより効果的に整える「作る手ほどき」を開陳してある。しかしそこに玄人の読み手の歌に取材し「読む技術」も併せて解説される。
ふつう短歌を作ることを「詠む」と言う。綴りは「詠」だが読みは「よむ」で、これはつまり適切に作ることの為には的確に読むことが出来なければならないことを示しているようにも思われる。それは他の人間が作った短歌の「心」に接近する為の「技術」だろう。玄人が素人に接するものとは言え、その歌の「添削」なんてことが可能なのは、素人の歌に込められた「心」を的確に「読む」ことが出来てこそであって、「心」を的確に読めればこそ、そこからより適切な「言葉」の形を再構成することも出来る。

しかし、詠み手の「心」を読むのは、やはりそれも読み手の「心」でしかない。それは私秘的な領域に存するもので本来的に公共的なものではない。一見どんな独りよがりな表現も、ある種の心から心へならば、相通じる表現足りうることもある。そんな「心」の繊細なありようそのものを「添削」することは、あってはならないとこの本の書き手は述べる。
ではそれでもやはり「添削」することが可能になるのは何故かと言えば、それはその「心」を媒介するのが「言葉」であるからだろう。「言葉」は公共的な媒介であって、「心」の表現もそのかぎりで公共的に波及する。「言葉」が公共的な媒介でありうるのは、それに共通の規範があるからで、共通の規範があることで、そこで「心」が相通じる可能性も出て来るということになる。

「心」と「言葉」の関係は、「私秘性」と「公共性」の関係でもあり、またさらに換言すれば「表現したいもの」と「表現されるもの」の関係でもあるように思われる。とするとそれは表現すること一般の問題とも言えることになる。短歌の場合はそれが一定の形式に則った言葉の表現として為されるわけだが、異なる媒体の表現の場合にも、その関係の概念図は当てはまるように思われる。そして「表現されるもの」を洗練させるのは、飽くまでも「表現したいもの」を「表現されるもの」にしようとする、つまり具体的な形にしようとする意思あってこそで、それは短歌なら短歌という媒体自体の集合知との緊張の中から具体化するだろう。そしてそれは、逆接的に「表現したいもの」をも洗練させることになる。

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個人的にこの本の具体的な指摘に接していて想い起すのは、映画のありようのことではある。
短歌には五七五七七の三十一文字という基本的な形式規範があるが、そこに作品としての内実をもたせるには、やはり素材としての「心」の印象があってこそということになる。それは映画に於ける「撮影」と言えるだろうし、とすれば「心」を具体的に「言葉」にする作業は、映画に於ける「編集」と言えるだろう。「撮影」した素材を「編集」して作品にするには漠然としたものであれ一定の規範が必要で、短歌の五七五七七の三十一文字に当たるのが、映画では120分至90分程度の標準的な時間尺ということになるのではないか。むろん映画には判然たる形式規範はないとは言え、より適切なありようというものは模索しうるのだから、それを規範的なものとして考えることは出来るだろう。
この本に於ける「も」や「の」といった品詞を疑えという指摘は、映画の映像間の編集処理を想起させるし、副詞に頼るなという指摘は映像に於ける「説明」と「描写」の相違を想起させる。それは、いまや映像が言語的構成媒体だということを裏書きするだけのことなのかも知れないが、それならばそれで、映画はたんに散文的な小説のような表現であろうとするよりは、散文的ではありながら同時に形式的でもある短歌のような表現であろうとする方が、より映画的な映画足りうるのではないかとも思えてくる。

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この本の書き手の文章には、句読点が多いように思える。多いように思えるのは、具体的に音読を想定してみると判る。それは言葉と言葉の繋がり、連なりに意識的な書き手故なのかも知れない。