読み書き

読んだものについての覚書

『考える短歌 作る手ほどき、読む技術』(新潮新書/俵万智)

「短歌」と言えば、五七五七七の三十一文字で綴る詩歌、というくらいのことしか知らない。日常に使う言葉をたんに語呂合わせしてもその形にはなるから、それが詩歌になるためには歌われるべき何かが必要だということになる。その何かをこの本では「心」と呼ぶ。「心」を基本三十一文字の「言葉」に託して表現するのが「短歌」だと。

この本では素人の詠み手の歌を添削し、その「言葉」の形を「心」に則してより効果的に整える「作る手ほどき」を開陳してある。しかしそこに玄人の読み手の歌に取材し「読む技術」も併せて解説される。
ふつう短歌を作ることを「詠む」と言う。綴りは「詠」だが読みは「よむ」で、これはつまり適切に作ることの為には的確に読むことが出来なければならないことを示しているようにも思われる。それは他の人間が作った短歌の「心」に接近する為の「技術」だろう。玄人が素人に接するものとは言え、その歌の「添削」なんてことが可能なのは、素人の歌に込められた「心」を的確に「読む」ことが出来てこそであって、「心」を的確に読めればこそ、そこからより適切な「言葉」の形を再構成することも出来る。

しかし、詠み手の「心」を読むのは、やはりそれも読み手の「心」でしかない。それは私秘的な領域に存するもので本来的に公共的なものではない。一見どんな独りよがりな表現も、ある種の心から心へならば、相通じる表現足りうることもある。そんな「心」の繊細なありようそのものを「添削」することは、あってはならないとこの本の書き手は述べる。
ではそれでもやはり「添削」することが可能になるのは何故かと言えば、それはその「心」を媒介するのが「言葉」であるからだろう。「言葉」は公共的な媒介であって、「心」の表現もそのかぎりで公共的に波及する。「言葉」が公共的な媒介でありうるのは、それに共通の規範があるからで、共通の規範があることで、そこで「心」が相通じる可能性も出て来るということになる。

「心」と「言葉」の関係は、「私秘性」と「公共性」の関係でもあり、またさらに換言すれば「表現したいもの」と「表現されるもの」の関係でもあるように思われる。とするとそれは表現すること一般の問題とも言えることになる。短歌の場合はそれが一定の形式に則った言葉の表現として為されるわけだが、異なる媒体の表現の場合にも、その関係の概念図は当てはまるように思われる。そして「表現されるもの」を洗練させるのは、飽くまでも「表現したいもの」を「表現されるもの」にしようとする、つまり具体的な形にしようとする意思あってこそで、それは短歌なら短歌という媒体自体の集合知との緊張の中から具体化するだろう。そしてそれは、逆接的に「表現したいもの」をも洗練させることになる。

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個人的にこの本の具体的な指摘に接していて想い起すのは、映画のありようのことではある。
短歌には五七五七七の三十一文字という基本的な形式規範があるが、そこに作品としての内実をもたせるには、やはり素材としての「心」の印象があってこそということになる。それは映画に於ける「撮影」と言えるだろうし、とすれば「心」を具体的に「言葉」にする作業は、映画に於ける「編集」と言えるだろう。「撮影」した素材を「編集」して作品にするには漠然としたものであれ一定の規範が必要で、短歌の五七五七七の三十一文字に当たるのが、映画では120分至90分程度の標準的な時間尺ということになるのではないか。むろん映画には判然たる形式規範はないとは言え、より適切なありようというものは模索しうるのだから、それを規範的なものとして考えることは出来るだろう。
この本に於ける「も」や「の」といった品詞を疑えという指摘は、映画の映像間の編集処理を想起させるし、副詞に頼るなという指摘は映像に於ける「説明」と「描写」の相違を想起させる。それは、いまや映像が言語的構成媒体だということを裏書きするだけのことなのかも知れないが、それならばそれで、映画はたんに散文的な小説のような表現であろうとするよりは、散文的ではありながら同時に形式的でもある短歌のような表現であろうとする方が、より映画的な映画足りうるのではないかとも思えてくる。

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この本の書き手の文章には、句読点が多いように思える。多いように思えるのは、具体的に音読を想定してみると判る。それは言葉と言葉の繋がり、連なりに意識的な書き手故なのかも知れない。